おはようございます!学猿です。
前回は、最近の僕は日常のストレスが減って快適に暮らせていると書きました。
そしてその理由として、他人への愚痴や批判をあまり口に出さなくなったことを挙げました。
今回は、そもそも何故、他人へのネガティブな発言をしてしまっていたのかを考えてみたいと思います。
自分が正しい
他人に対してネガティブな発言をしてしまう要因はいくつかあると思いますが、個人的に元凶は、
「自分が正しいと思っている」
ことだと思います。
勿論、万人に当てはまる訳ではなく、あくまで僕の体験からくる実感です。
誰しもが、自分なりの価値観や考え方を持っています。
その価値観や考え方が、「間違っている」と思ったり感じたりしている人は少ないでしょう。
自分の価値観や考え方を「正しい」と思うところまでは特に問題はないのですが、コレを、他人にまで押し付けたり、強制してしまったりする人がいます。
それが、以前の僕でした。
そして、そこまで強い気持ちでなくとも、日常のちょっとしたシーンで、他人の行動が自分の価値観と違うことに腹を立ててしまう方は非常に多いと思います。
普通は~
自分の価値観や考え方を他人に押し付けてしまう人がよく使う言葉に、
「普通は~」
「一般的には~」
が、あると思います。
僕もよく使っていました。
でも、その普通って誰が決めたのでしょうか?
一般的にというのは、どの程度の人が同じ考え方だと一般的なのでしょうか?
100歩譲って、ある考え方が「普通・一般的」だとして、それが本当に「正しい唯一無二」の考え方なのでしょうか?
そう考えてみれば、自分の価値観や考え方が「絶対である」とは言い切れません。
十人十色
千差万別
人の数だけ、様々な価値観や考え方があります。
そう心から実感するようになってから、僕は以前と比べると、あまり他人に対してネガティブな発言をしなくなりました。
究極
そうは言っても、誰もが正しいと思うことはあります。
例えば「人を殺めることはいけない」ということ。
例えが極端かつ気分が悪くなるもので申し訳ありませんが、それこそほとんどの人が「普通・一般的」に考えて、絶対にしてはいけない行動です。
ですが、究極とも思えるこの価値観・考え方でさえ、時代によっては「悪」ではなかった時があります。
僕が好きなミュージシャンの歌の歌詞の中に、
「時代が違えば”殺し”さえ讃えられて」
というものがあります。
時代や場所、その時におかれている状況によっては、人を殺めることでさえ容認されている時が存在したのは事実でしょう。
勿論、僕は人を殺めることが場合によっては正しいなんてことを言いたい訳ではありません。
そんなことは、絶対にしてはいけないです!
僕が言いたいのは、このような究極とも言える状況に対する価値観・考え方でさえ、場合より異なる時があるのだから、日常生活のおける価値観や考え方が人によって異なるのは当然だとは思いませんか?ということです。
書いているうちに話が変な方向に向かってしまいました。
すいません。
つづく